〈信仰体験〉 人形劇一筋42年 世界23カ国を巡る  2022年12月15日


子ども相手だから

真剣勝負

創大生としての誇り胸に


42年の芸歴も、「まだまだ駆け出し」と探求心が衰えない中山さん。一期一会の子どもたちと、心通わせる挑戦に幕引きはない

【東京都八王子市】「人形劇は奥が深くて、追求し切れませんよ」。この道一筋42年、
「トモキチ」こと中山知二さん(67)=地区幹事=の弾む声を聞くと、
自然と笑顔になる。一度、人形を手にしたら、セリフは“立て板に水”のごとく。
エネルギーに満ちあふれる“トモキチワールド”へようこそ!


公演の朝――。舞台装置を車に積み込む。自ら運転し、会場である幼稚園へ。他に人の姿はない。
それもそのはず。中山さんは、芝居はもとより、舞台設営、照明、音響に至るまで、
全てを一人でこなすのだ。客席づくりから始めて1時間ほどで、いつもの幼稚園の教室に、
「トモキチ笑劇場」が現れる。


 「なにをやるの!?」。教室に入ってきた子どもたちは、昨日までなかった舞台に興味しんしん。
ただ、全員が前のめりなはずもなく、半分くらいは心ここにあらずといった感じ。
 「ここからが僕の勝負どころです」
 中山さんは、人形劇の前に、マジックや腹話術を披露する。興味のなさそうだった子も、
次第に顔が上がっていく。「前座の一番の目的は、子どもを味方につけること」
 
 生の舞台は、演者と客が一緒につくるもの。子どもに“おじさんは、面白いことをやってくれそう”
とワクワクしてもらうために、一人一人に語りかける思いで臨むという。





 続いて、腹話術人形トンちゃんとの掛け合い。とんちんかんな答えを繰り返すトンちゃんに、
子どもたちから「ちがうよー!」と突っ込みの声が。初めはそっぽを向いていた子が、
10分ほどたつ頃には、目を輝かせて声を上げ出した。
 
 そして――いよいよ本番の人形劇。演目は「おおきくなったネズミくん」。
人形がコミカルな動きを見せるたび、大きくなる子どもたちの笑い声。
相手を思いやる大切さを表現したクライマックスシーンでは、
全員が前を向いた。“トモキチワールド”にすっかり魅了されたようだ。
 
 しゃべりっ放しの1時間。終了後には中山さんの足腰もフラフラ。それでも、
「いつもは、おとなしいうちの子が、夢中になって人前で声を出すのを初めて見ました」。
そんな言葉を保護者からもらうと、「いくつになっても辞められません」と。
中山さんの笑顔が、子どもに負けずキラキラと輝いた。


自作の芝居に合わせ、人形の多くは特注したもの。笑いあふれる物語の中に、子どもたちへのメッセージが込められている



「本当に一人でやってるんですか!?といわれることもしばしば。
人形に”命”を吹き込むのは、中山さんの生命力だ

“皆を笑顔に”――「もともとは、そんな人間ではないんですよ」。
相手はおろか、自分の可能性すら信じることができなかった。
 
 手に職を付けようと進学した高等専門学校は中退。
アクション俳優を志し芸能事務所に入ったが、半年後、稽古中に高所から転落し、
13針を縫う大けがを負った。完治までは7カ月との診断。
 
 “どうせ俺なんか……”。上半身をギプスで固定され、見上げた病室の天井に、
希望など描けなかった。事務所を退所。転々としていた居候先で、ある日、
先輩が言った。「大学祭に来ないか」誘われるまま参加したのは、
先輩が通う創価大学の寮祭「滝山祭」だった。衝撃を受けた。
同世代の輝く顔。夢を語る決意の声。“すごい世界だ。ここで俺も学んでみたい。
変われるかもしれない”

 先輩の部屋に戻り、思いを伝えると、「祈ってかなえよう」と一言。
中山さんは、幼い頃に母と入会していたものの、題目を唱えたことはなかった。
 唱題をすると、後ろ向きな心が晴れていくのを感じた。1年半、アルバイトを掛け持ちしながら
懸命に勉強し、1977年(昭和52年)、7期生として入学を果たした。
 創大では、児童文化研究部に入部。人形劇に触れたのも、この時が初めてだ。
 子どもに笑顔を届けたいという漠然とした思いはあったが、吃音もあって人前で話すのは大の苦手。
「人形を通してなら話せるかな、という軽い気持ちでした」

 毎回の人形劇では、終わると子どもたちが満面の笑みで駆け寄ってくる。
いつしか人形劇の奥深さにはまり、3年次には100人を超える部の副部長に。
人前で話すことへの苦手意識もなくなり、“人形劇のプロになる”という夢もできた。
しかし、“自分の力はどこまで通用するのか。収入だって安定しない”。
 
 悶々としながら、大学構内を歩いていた3年の終わり。池田先生の姿が視界に入った。
考えるより先に、足が動いていた。 「児童文化研究部です!」。口を突いて出たのは、
人形劇の活動のこと、児童文化への思いだった。先生は、じっと話を聞いた後、語った。
 “これからは、そういうことが大事なんだよ。子どもたちのために頑張ってください”

 師の励ましを胸に、プロの人形劇団の一座に加わり、約9年間、全国の旅公演に付いて回る生活を。
 その後は、数人で劇団を立ち上げたり、日本の伝統人形芝居に関わって海外公演に回ったりと、
多忙な日々。鍛えの時が教えてくれたのは、心を磨く大切さだった。
 
 「子どもの文化は、『子どもだまし』じゃいけないんです。子どもは鋭い。技術では、ごまかせません。
心からのホントの言葉じゃないと伝わらないと感じています」
 だからこそ、毎回の舞台が真剣勝負だと肝に銘じ、47都道府県のほか、
アメリカやヨーロッパなど23カ国を巡ってきた。

舞台上のあたたかな空気が家庭にも満ちている(右から妻・丸子さん、娘・海さん)

 経済的な苦境もあった。妻・丸子さん(61)=支部副女性部長=と言い合うことも。
そのたびに『我が一念の変革』が、すべての変革の鍵なのです」との
先生の指導を支えに、夫婦で御本尊に向かった。
 
 中山さんは「家族には迷惑をかけっ放し」と語るが、丸子さんは
「あなたといると楽しいから」と、最後は笑顔で受け止めてくれた。
 学会家族の励ましも大きな力に。旅公演が続く時には、
最寄りの会館で会合に参加。信心に食らいついた。
 夫妻の真摯な祈りは、人形劇を続けられる職場への雇用という形で実る。
数年前には念願のマイホームを建てることもできた。
 
 自分を卑下した青年時代。人に笑顔を届ける人生になるとは、想像もつかなかった。
 「“生きていること自体が楽しい”。そんな人生にさせてもらいました。
きょう出会う子どもたちも、僕の人形劇をきっかけに、本人が思ってもみない
可能性を開くかもしれない。子どもたちの将来を思うと、楽しくてしょうがないんです」